【日光】≪コラム≫近代の日光 | 栃ナビ!キャラバン隊 | 栃ナビ!
クチコミ投稿

栃ナビ!キャラバン隊

  • 画像

「日光インタープリター倶楽部」の塚原トモエさんによるコラム。
明治・大正時代の日光が、なぜこんなにも外国人たちに愛されたのか。
時代背景を知ることで、知らなかったもう一つの日光に出会えます。

外国人たちに愛された、近代の日光

  • 画像

日光は「東照宮」があまりにも有名なので、江戸時代からの歴史と思っている観光客は多い。しかし奈良時代末には開かれており、『枕草子』には清少納言の好きな橋として「やますげの橋」(神橋)と記されており、平安時代の都の女性も日光を知っていたことになる。しかし、江戸時代が最も権威と活気ある時代であったことは言うまでもない。

明治に入ると幕府の手厚い援助を失い、寂びれた町になってしまった。しかし、明治3年イギリス公使ハリー・パークス夫妻の来晃を皮切りに、多くの外国人が日光を訪れることになるのである。前時代の権力者の聖地を一度見物したいという目的であったろうが、建造物の素晴らしさにも増して自然の美しさに目を奪われたのである。明治8年には、日光をこよなく愛したイギリス公使館書記官アーネスト・サトウが『A Guide to Nikko(日光案内)』をジャパン・メイル社から出版し日光の魅力を広く伝えた。これで日光が、国際的避暑地として広く知られるようになったのである。

明治22年になると、 『ジャングル・ブック』などの作者でノーベル文学賞受賞者のキプリングも日光を訪れ、以下のような豊かな表現で日光を誉めたたえている。
神橋=「杉の巨木は真正面に暗緑色の壁のようにそそり立ち、深い緑色の渓流は青い岩を噛みながらほとばしり、血のような真っ赤な色に塗られた橋が架かっていた」
憾満淵=「目の前を狂ったように流れる急流は薄紅色がところどころまじり、日光は地上で最も美しい場所」

その頃の外国人滞在者は、(明治20年)1,200人 、(明治25年)1,928人いたという数字が残っている。明治23年に日光線が開通すると国内の客も多くなり、明治43年には人口14,000人の日光の町に198,000人が押し寄せ、一般家庭でも客を泊めるのが常識化した。この時代に、人口よりはるかに多くの外国人たちがひしめき合っていたような場所は、日光以外どこにもなかっただろう。

日光の町が急に騒がしくなると、貴顕紳士達はそれを嫌ってさらに奥地の中禅寺に移動することになる。中禅寺はスコットランド北部の風景やイタリアのコモ湖にも似ており郷愁の念を抱くと共に、山あり川あり湖ありで英国風カントリー・ジェントルマンの趣味を嗜む男達にとって天国であった。

大正15年には、中禅寺に社交クラブ「東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部」が発足し、総裁には皇族が就任し政財界の著名人・在日外国高官・著名な外国紳士など40名程で組織された。奥日光は外交団と親善をはかる一大社交場になったのである。そして「夏は外務省が日光に移る」とまで言われるようになった。中禅寺湖畔に外国人別荘が40軒も建ち並んでいたことなど、現在では想像もつかないが、我々とは別世界のセレブな社交場も大東亜戦争開戦と同時に消え去ってしまった。しかし、現在もイギリス・イタリア・フランス・ベルギー大使館別荘は現存しており、イタリア大使館別荘に続いてイギリス大使館別荘も栃木県が買い取り、修復後一般公開する予定である。

まだ国際的外交交渉に未熟だった幕末に締結された和親条約は、日本にとって屈辱的な内容であった。これを改正するには近代国家として欧米列強に認めてもらわねばならない。鹿鳴館などをつくって背伸びをするなど、涙ぐましい努力を強いられた。日光もその一翼を担ったのである。しかし条約の改正は容易ではなく、日清戦争に勝ち、日露戦争に勝ってやっと改正され近代国家として承認されたのである。重大な案件は武力でしか解決できない人間の性なのだろうか。

江戸・明治・大正・昭和という時代を経て、政治的背景とも複雑に絡み合った、日光の近代史。これらを知った上で日光を歩いたとき、この土地に幾重にも重ねられてきた歴史を立体的に理解できるはずである。そしていつの時代にも選ばれてきた、日光がもつ圧倒的魅力に気付き、改めて魅了されるだろう。

当時の主な建築物

「日光金谷ホテル」

画像

  • 画像

金谷ホテルは初代 善一郎が、明治4年ヘボン式ローマ字の発案者であるヘボン博士を宿泊させたことに始まる。善一郎は東照宮の楽人であったが外国人を宿泊させたことで東照宮の忌諱にふれて破門されてしまった。それを知ったヘボン博士の勧めで、外国人向けの宿屋を開業することになった。それが「金谷カッテージイン(民宿)」である。

明治11年には『日本奥地紀行』の著者イザベラ・バードが滞在し、「金谷カッテージイン」を高く評価している。「よく磨かれた家、そして妹は優しく上品で彼女が家の中を歩き回る姿は妖精のように優雅であり、声は音楽のような調べがある」と記している。当時の旅籠は「ちょっと横になるとノミが一斉に飛びかかる」とイザベラ・バードも記しているように非常に不潔であったようである。それに比べて「金谷カッテージイン」の清潔さともてなしの良さに新鮮な印象を与えたのであろう。

-----------------------------------------------------

「日光ホテル」

画像

  • 画像

現在は輪王寺の付属建物が建っているが、江戸時代の奉行所跡地に、明治21年豪華な「日光ホテル」が建設された。これは明治23年の日光線開通を見越して、外国貴賓を宿泊させる本格的ホテルの必要から建設されたものと考えられる。建設者・資金提供者などをみると国家的事業であったことが見えてくる。

その後「新井ホテル」も隣接地に建てられて(後に合併して日光ホテル)当時の外国人賓客はほとんどこのホテルに宿泊している。だが大正15年1月火災で焼失してしまった。

-----------------------------------------------------

「日光田母沢御用邸」

画像

  • 画像

日光にはもう一ヶ所御用邸(日光御用邸)があった。現在輪王寺本坊として使用されている建物である。なぜ御用邸が二か所も必要だったのか。これはやはり外国人を充分意識してのことであろう。田母沢邸は公的な部屋の棟は高く長身の外国人に配慮している。又、大正天皇は田母沢にご滞在中しばしば中禅寺に行幸していることからも読めてくる。

日本が世界に誇れる文化の中で最も重要なものは何かと考えたとき、2,000年もの間万世一系の天皇の存在であろう。その存在を身近に感じて頂こうと考えたとしても不自然でない。

written by 塚原トモエ

画像

  • 画像

日光の史跡や自然を解説する観光案内ガイド「日光インタープリター倶楽部」のメンバー。日光市に生まれ育ち、「日光田母沢御用邸」 に長年勤務していた経歴を持つ。近代のみならず、古代から現代まで日光の歴史に造詣が深い。誰もが自然と惹きこまれるような、楽しいガイドをしてくれる名ガイドさんとしても有名です。日光市主催「日光まち歩きツアー」などでお会いできるかも♪

取材:2014年12月

※掲載内容は取材時の情報です。