益子町の古墳
牛馬を労わった心優しい「ギバ公様」の民話が残るバッカン塚古墳
未調査のため詳細な時期は不明。古墳時代(1,700~1,300年前)後半の可能性が高いと思われます。元はもっと多くの古墳があったようですが、現在残っているのは4基です。本来は今より大きく、周囲に溝(空堀)が巡っていたと思われます。
無
おすすめ
バッカン塚古墳群 | 菊池病院(栃木県芳賀郡益子町塙)の南側に3基、北側に1基、円墳と思われる4基で構成される古墳群です。 バッカン塚古墳には「ギバ公様」という伝え話が残っています。 |
---|---|
バッカン塚古墳にまつわる言い伝え …心優しいギバ公様 |
昔々、心の優しい外国より渡来した武将がいました。負け戦で負傷した馬を谷に導き傷の手当をしました。戦も終わり平穏な日々になると、農家の疲れた牛馬を見て廻り世話や傷の手当の仕方を教え歩きました… |
バッカン塚古墳にまつわる言い伝え …馬韓(バカン)塚に葬られたギバ公様、「牛馬を思いやる心」は後々まで村に残りました |
…村人には「ギバ公様」と呼ばれるようになっていました。再び戦が始まると、武運無く戦死してしまったギバ公様は、その後塙の馬韓塚に葬られたとされていますが定かではありません。 |
新着クチコミ
クチコミ:1件
みんなの声でわかる、スポットの特長
- 馬3
- 武将3
- 擬葉3
- 公3
- 病院3
- 南側2
- 3基2
- 北側2
- 1基2
- 古墳群2
-
菊池病院の南側に3基、北側に1基ある古墳群です。それにまつわるお話があります。負け戦で傷ついた馬など見捨ててみんな逃げてしまうなかで1人の武将は馬を丁寧に手当をしておりました。戦は終わり穏やかな日々が戻ると武将は農家を回り牛や馬の世話の仕方、傷の手当の仕方を親切に教えて歩きました。この武将は海の向こうから来た人なのでギバ公様と呼ばれ村の人達に頼りにされるようになりました。しかしまた戦が起こりギバ公様は運悪く討ち死にしてしまいました。村の人達はたいそう悲しみ手厚く葬りました。それがバッカン塚古墳で全て円墳の古墳群です。病院南側の畑の側の3基は草木に覆われていて小ぶりのサイズです。北側の病院の敷地内の1基は杭と鎖で囲まれてありました。墳丘が芝で覆われていて管理されているみたいで見やすく楕円形で中規模のサイズです(病院の管理ではないそうです)。ギバ公様が4基のどれに葬られたのか分かりませんが現在も大事にされていることが分かりました。 (訪問:2023/07/15)
掲載:2023/10/11"ぐッ"ときた! 24人
※上記のクチコミは訪問日当時の情報であるため、実際と異なる場合がございますのでご了承ください。