足字銭と鋳銭座 - 日光市の遺跡・史跡|栃ナビ!
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アシジセントチュウセンザ

足字銭と鋳銭座

0288-25-3200 0288-25-3200

遺跡・史跡

産銅量の減退、山元を救おうと鋳銭した「足」の字が刻まれた寛永通宝一文銭

寛永通宝は江戸時代に広く流通した銭貨で、寛永13年(1636)に創鋳、幕末まで鋳造。特に足尾で鋳造の寛永通宝一文銭は、裏に「足」の字が刻まれ「足字銭(足尾銭)」と呼ばれ、お銭(かね)のことを「おあし」と言っていたのも足字銭が語源といわれます

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足字銭の由来 江戸幕府直山の足尾銅山は産銅量の減退に伴い、銅山師達は山元(やまもと)の困窮を救うため、寛保元年(1741)幕府に足尾銅山で「寛永通宝・一文銭」の鋳造許可を願い出、鋳銭することとなりました。
「お救いの鋳銭座」で造られた足字銭 寛保2年(1742)から延享4年(1747)までの6年間に約2億1千万枚を鋳銭。鋳銭座の場所は現在の中央グラウンド周辺。
更に詳細を知りたい方は、足尾銅山観光内の資料館へぜひ!(日光市足尾町通洞9-2) 足字銭資料館「鋳銭座」では、溶かした銅から銭になるまでの工程、原型となった母銭の現物も展示されています。資料館の外には【寛永通宝】のオブジェも!

※表示価格は更新時点の税込価格となっております。
[更新:2023年11月24日]

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クチコミ:1
  • maffinman

    maffinmanさん

    総合レベル
    197

    足字銭と鋳銭座跡(日光市文化財 あしおみどころ十五景)は市営の駐車場にあります。1741年に幕府にお願いして足尾銅山で鋳造された寛永通宝1文銭で裏に足の字があることから通称足字銭とも呼ばれ1742年~1747年までに約22万2千6百文が鋳造されコノ場所が鋳銭座跡でソノ鋳銭枚数は2億1千万枚余であったそうです。良く見ると手前にある「あしおみどころ十五景」の標柱は同じで足字銭のデザインそのものです。幕府の首を縦に振らせてまで作った足字銭の存在が決めてになったんでしょうね。足尾銅山の幕府への影響力が感じられる銭貨です。 (訪問:2021/12/14)

    掲載:2022/04/09
    "ぐッ"ときた! 26

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