日光市の城跡・城址
【市指定史跡】鎌倉時代築造の典型的な中世豪族の居館跡
城跡は標高310mの鬼怒川右岸に発達した河岸段丘上に位置し、規模・形式・遺構残存状態など良好で、鎌倉期の典型的な豪族居館と推定される。鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠の末子重慶の城と伝えられている。
無 ※個人所有地でもあり整備さ…
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一辺約80mの土塁に囲まれた正方形の城跡 | 土塁の東南面は梅ケ沢まで25m程の急崖、北西面は下の段丘面まで20m程の急斜面、平地と接続する北東面と南西面は、幅3~4m、深さ2~3mの水壕を廻らし、土塁の高さ1.5~2.5m程である。 |
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鎌倉時代前期の僧 畠山重慶 | 父重忠と兄らは、元久2年(1205)畠山重忠の乱で北条氏率いる幕府軍によって滅ぼされ、畠山氏の名跡は北条氏縁戚の足利義純が継承、平姓畠山氏は断絶したと言われる。重慶は幼少のため日光に移り僧籍にあった。 |
『吾妻鏡』に「畠山重慶が轟城を拠点に反乱を企てた」という記録あり |
「建保元年(1213)畠山重慶が日光山麓に謀反を企てたと日光山別弁覚が鎌倉幕府に通報し、将軍実朝は長沼五郎宗政に逮捕を命じたが、宗政は生け捕りせず首を持参した為、実朝は不快に嘆息した」旨の記録がある。 |
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クチコミ:1件
みんなの声でわかる、スポットの特長
- 城3
- 土塁2
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鎌倉時代の畠山重慶の城だと伝えられているそうです。国道沿いに轟城跡の日光市文化財の立て札が立っていてソノ道を少し進むとお城への道標があります。水堀にかかる橋を渡ると高さ2m以上の土塁が約80mの正方形の主郭を囲んでおりました。堀にしても土塁にして遺構が良く残っております。北側は急な崖となっていて防御力が高いお城だなあと感心しました。 (訪問:2022/05/02)
掲載:2022/07/05"ぐッ"ときた! 28人
※上記のクチコミは訪問日当時の情報であるため、実際と異なる場合がございますのでご了承ください。
基本情報
住所 | 日光市轟 地図を印刷 |
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交通 | 461号線沿いに説明板があり、そこから東に入る道を進むと、左側の民家の手前に城入口の案内があります。 |
日光市文化財課 | 0288-25-3200 0288-25-3200 |
駐車場 | 無 ※個人所有地でもあり整備されていませんので、見学の際は足元など十分お気をつけください。 |