那須塩原市の遺跡・史跡
塩原出身の高尾太夫を供養するために立てられた石碑
塩原塩釜出身「二代目高尾」の没後150年にその身を哀れんだ妙雲寺の住職と和泉樓の主人が江戸の儒学者、山本北山に撰文を依頼、高尾生家の子孫「太七」が施主となって建立。碑文には生い立ち、三浦屋時代の名声、高尾にまつわる挿話等が綴られています。
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有形文化財 | 指定年月日:平成11年(1999)6月23日 |
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二代目高尾(塩原塩釜の出身) | 才色兼備の名妓ゆえ多くの挿話が残る。晩年は病により十九歳の若さで没したとする説(妙雲寺には「寒風にもろくもくつるもみじかな」の辞世の句碑あり)や、落籍後仏門に入り七十七歳まで生きたとする説もある。 |
石碑 | 碑文には高尾の生い立ち、三浦屋時代の名声、高尾にまつわる挿話や落籍後仏門に入り没するまでの経緯等が綴られている。 |
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塩原温泉観光協会主催の文学碑スタンプラリーで訪れました。椅子の上の箱の中にスタンプカードとスタンプが入っていてスタンプを押印しました。高尾塚碑(那須塩原市文化財)は1650年代に活躍した高尾太夫を供養するために建てられた石碑です。高尾太夫は江戸時代の吉原で最も有名な名で相応しい女性が代々襲名しました。その中でも特に有名な二代目で塩原塩釜出身といわれております。「塩原名勝旧跡の伝説」で15の挿話が紹介されていて元湯で生まれ塩釜に引っ越し幼少時は家計が苦しく貝石沢で化石を集めては売っていたことや吉原への身売りまでが少しづつ違った内容で書き綴られております。述懐「誰やたれ誰れかは今日の夫ならん定めなき世に定めなき身は」辞世「寒風に もろくもくつる 紅葉かな」など句も残していて吉原の三浦屋の花魁として一世を風靡しただけでなく文芸も優れた人であったことが分かります。高尾の名は塩原の各所で見られ今でも塩原で愛されている人物だということが感じられました。 (訪問:2023/11/05)
掲載:2024/01/05"ぐッ"ときた! 22人
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