益子町の遺跡・史跡
長堤村から江戸の千住までの多数の橋を架け替えた添谷長俊を讃える2つの碑
長堤の添谷長俊と妻の実家(茨城県桜川市大泉)の袖山氏が、江戸の千住から長堤村までの橋が壊れているのを憂い、石橋料を寄付したことに対しての顕彰碑です。長堤八幡宮東側参道入口には長俊が寄附した石橋が掛かっていたとされ、面影を後世に伝えています。
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2基の碑にまつわる言い伝え …不運にもめげず故郷に錦を飾る長俊 |
添谷氏は代々田野城跡に住んでいましたが、9代目長俊の時、不運続きで貧乏生活を強いられます。長俊は単身江戸の長堤村領主松平定昌の屋敷で奉公し、その働きを認められ田野陣屋代官として故郷に錦を飾りました… |
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2基の碑にまつわる言い伝え …多数の橋を架け替えた長俊を讃え碑を建立 |
…長俊は帰る道々、朽ち果てる木橋を石橋に架け替えようと心に誓います。その後30余年寄附をし架け替えた橋は、長堤村から江戸の千住まで相当数に上ったそうです。田野の住民はその行いを讃え記念碑を建てました。 |
石橋料寄附の碑 | 明和3年(1766)の碑には「橋永代掛続料寄附」、明和5年(1768)の碑には「石橋料寄寄附」と記されています。 |
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県道41号線沿いの墓地に記念碑があります。それにまつわるお話があります。田野の名主の染谷長俊は不運が続き沢山あった財産もなくなり日々の暮らしにも困る有様でした。ある日のこと長俊が田んぼを耕していると借金の取り立て屋が来て金を返せないなら馬をもらうと田んぼの中で働く馬を無理矢理連れて行ってしまいました。そんなことがあったので長俊は家族を母親の実家に預け一人で江戸に出て長堤村の領主である松平定昌の屋敷に行って足軽として奉公しました。骨身を惜しまず働き五千石を取り締まる田野陣屋のお代官へと出世しました。長俊は江戸の千住から田野までの古くなった木で出来た橋を自分で寄付して三十数年かけて石の橋に架け替えました。相当な数を架け替えたそうで田野の人達は長俊の立派な行いを褒め称え記念碑を建てたというお話です。記念碑は墓地入口にあり一つかと思ったら二つありました。どちらも刻まれている文章は同じようです。代官まで立身出世した人がふんぞり返らず皆の為に尽くすことなど中々出来るものではありません。長俊の人を気配る心根がそうさせたのだろうと思いました。正に田野の英雄です。 (訪問:2023/07/15)
掲載:2023/10/10"ぐッ"ときた! 24人
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