下野市の遺跡・史跡
【下野市指定文化財】江戸時代の特徴をよくとどめた大型の宝篋印塔
宝篋印塔は宝篋印陀羅尼経を納める塔で、鎌倉~南北朝時代に盛んに建てられました。この黄梅寺(旧境内)の宝篋印塔は、銘文の中に「享保二十年星紀乙卯仲春鬼宿日」とあり、江戸時代の特徴をとどめた高さ4.7mの大きな宝篋印塔です。
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宝篋印塔 | 「宝篋印陀羅尼経」を納める塔で、鎌倉~南北朝時代にかけて盛んに建てられました。蓮華の請花上部2段目の基礎四面に銘文が刻まれ、それにより享保20年(1735)に造立とされています。 |
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多層式の江戸時代の特徴をもつ宝篋印塔 | 上から…【相輪部】請花と宝珠からなる九輪、【笠部】重厚で外方に反り返えり、【塔身部四面】金剛界の四仏が梵字が、【基壇上の基礎四面】2字ずつ八大菩薩種子が刻まれています。 |
黄梅寺 | 江戸湯島霊雲寺の末寺、寛文年間(1661-72)に本吉田を知行した旗本松前氏の祈願寺として深玄律師が開基と伝えられます。明治22年に吉田村が成立すると、境内に明治31年まで吉田村役場が置かれました。 |
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1735年造立の高さ4.7mの宝篋印塔(下野市文化財)です。黄梅寺に伝えられる話があります。お寺に見龍という立派なお坊さんがいて村人に慕われておりましたが亡くなってしまいます。その死を悲しんでコノ世に生まれる時は黄梅寺の和尚さんになって下さいとの願いを込めお坊さんの背中に墨で黄梅寺と書き葬りました。何年か経ち吉田村の三人が伊勢の大神宮にお参りに行き大津の宿を出るとまもなく大きな黒牛に出会いました。牛は三人を見るとピタッと止まり牛追いが追っても引いても動かず三人の方を見てポロポロと涙を流しております。村人が背中を見ると黄梅寺の字が。お坊様の生まれかわりだと分かった三人は餌や水をやりお念仏を唱え別れを惜しみながら立ち去ったというお話です。残念ながらソノ黄梅寺も案内板のみに記されているばかりで山門すら残っておりません。ですが大型の宝篋印塔が盛り上がった丘の上でお寺があったことを証明しております。全ての部位が凝った作りで当時の黄梅寺の繁栄が偲ばれる塔です。 (訪問:2023/07/02)
掲載:2023/07/05"ぐッ"ときた! 24人 -
下野市文化財の石製宝篋印塔で1735年造立で高さ4.7mと大型です。一段高い所にあるので更に高く感じられました。頭のテッペンから足元まで完璧に保存されていました(宝珠~格狭間まで)。下から見上げると笠の部分は雨風を凌げそうなくらいユッタリとした造りで全体のバランスを取っておりました。塔身の四面に彫られた梵字、格狭間に2字ずつ四面の彫られた八大菩薩種子、返花座(蓮華)に彫られた龍など見所一杯の作品です。 (訪問:2020/11/07)
掲載:2021/03/15"ぐッ"ときた! 31人
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